by 澤田 幸治(時評)伊影 俊(書評)

今週の記事
私のばとる・ロワイヤル考 1/13
☆自分自身の過去と出会う10/22

☆映画評論「顔」(9/8)
☆映画評論「グリ−ンマイル」(4/12)
☆映画評論「アメリカン・ビュ−ティ−」(5/5)
★映画評論「雨上がる」
☆介護保険への素朴な疑問(4/12)

*記事に対する批判、助言、励まし等はよろこんでお受けいたします。こちらまでメ−ルください。

*なお、しばらくは月1〜2回位の更新でいきたいと考えております。
書評・映画評に関しましては、随時記載していきますのでご了承ください。

☆子供の目と大人の目、顔は変化する?

●市民の中に溶け込むと、善良で働き者の中年女性。藤山直美扮する吉村正子は、どこにでもいる平凡な人である。彼女は、母親の通夜の際妹を殺害して逃亡する。警察の追跡におびえながらも、それまでの生活の中にはなかった生きているという実感を強く感じる。乗れなかった自転車に乗れるようになり、何とか泳げるようにもなった。逃亡というせっぱつまった状況で、別の自分を演じる事で視野が広まったためか、今までの自信なげな姿勢が、ふてぶてしいまでに変わっていく。その彼女に触発される形で、彼女と出会った男達も個々の人生に決着をつけていく。逃亡が続く間に、彼女の顔は次第に良くなっていく。というよりは、表情がはっきりしていくのである。

●顔は内面を写し出す鏡である。「40歳を過ぎると自分の顔に責任を持て」といったような言葉を聞いた事があるが、確かに自信が無いときは、影が薄く見劣りする。逆に自信が満ち溢れている時は、輝くばかりに存在感が出てくるように感じるのは私だけであろうか。電車の中で、様々な人の顔を意識的に見てみると、少なくともその日の精神状態は予測がつくのではないか。全般に若い人ほど明るく自信を感じさせるようだが、近年は疲れが見える中年諸氏と同様、元気な若者が減っているのも妙に気にかかる。これは私だけの印象であろうか?いずれにせよ、希望を胸に潜めて、私も元気に頑張らねばという気にさせてくれる映画ではある。とりあえず9/15までテアトル梅田(梅田ロフト地下)で上映中。

●どんなに化粧でごまかそうとも、特徴を的確に把握できるには汚れていない(世の中の仕組みを理解していない)子供が良いのだろうか。島の中で島民に溶け込みつつあった正子を、「今テレビに出てたおばちゃんだ」と指摘するシ−ンは、子供の純粋性を強調するためであろう。意識するいないに関わらず、否応無しに様々な情報をもとにして先入観を形成し、それで未知の物や人と対峙しようとするのが私たち人間である。理解できなければ、拒否するしかない。ただ、その先入観に基づく他者の理解は、真実を必ずしも把握していない。ともすれば、まったく逆に理解している場合が多々ある。そういうことも含めて、自己の日常生活を反省するにはもってこいの作品ではないだろうか。今週暇な人は、ぜひご覧ください。とはいえ、けっこう混んでいますので注意

☆「グリ−ンマイル」はキリスト教世界の落し子

●私は無神論者である。とはいえ、他人が宗教を信じるのをとやかく言うつもりはさらさらない。ただ、他人に「この宗教を信じなさい。」と押し付けられるのには耐えられない。また、宗教団体が政治に口をはさんだり、税制面で優遇措置を受けるのはおかしいと考える。宗教は、あくまで、精神世界において不安を取り除き、安心感をもたらす機能を果たすべきである。俗世間にしゃしゃり出て、あれこれ言うのはそれだけで宗教の機能を逸脱していると思うのである。
●映画評論を述べるべきところ、いきなり脱線してしまったが、この「グリ−ンマイル」にはいかにもキリスト教世界の発想と感じられる設定を感じてしまったというのが正直な感想である。もちろんこの映画は、「キリスト教を信じなさい」と言ってるわけでもないし、瀕死の重病人を治す奇跡を信じさせる事を目指したものではない。というよりも、純朴な信仰心を忘れてしまった現代人に対する問いかけと考えるのが良いのではないだろうか。それが、大男の黒人コ−フィ−が映画の中で見せる奇蹟の意味合いであろう。1930年代の刑務所を舞台に繰り広げられる人間模様は、人間のもつ底知れぬ悪意とそれに相対するまだまだ捨てたものではない善意を見事なまでに対比させる。
●トム・ハンクス主演というだけで、赴いた映画ではあったが、底流に流れるアメリカの精神を力強く感じさせてくれた映画であった。日本映画もそうであるが、日本の場合は良質の映画が観客動員を呼ぶということはあまりないように見受けられる。その点、アメリカ映画は違うようである。全体のト−ンは暗いものの、救いのある映画である。各地でロ−ドショ−中。ぜひご覧ください。

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☆儚い夢では終わらない、「アメリカン・ビュ−ティ−」に見る中流幻想

◆売春婦まがいの言動で同級生のみならず周囲を幻惑させる女子高生アンジェラ。自分自身に潜む忌まわしい本質に目を背けながら、最後の最後にはその本性をさらけ出してしまう気位の高い元海兵隊大佐。そして、表面上は親の暴力に屈しているものの、裏のアルバイトとして麻薬の売人をしているリッキ−。リストラに直面し、生活に疲れ果て夢を喪失したあげく、その結果として家庭での権威失墜もはなはだしいレスタ−。逆に生活感にあふれ、物質的充実感を味わい、まだまだ上昇志向が途切れないその妻キャロリン。不安定な夫婦関係にある両親に、苛立ちを覚え、将来に不安しか見出せないジェ−ン。観客は現実に直面している立場に応じて、自己の分身をそこに観る。観客は、6人の主役(?)のいずれかに自分自身をあてはめ、それぞれの立場に共感を覚え、はたまたそれぞれの言動に反感を感じる。
◆自分自身の価値観を確立していると思われる人生の曲がり角にさしかかった人々。その価値観を絶対視して、維持していく事の危うさ。新たな価値観を見い出し、そこに意欲を感じ突き進もうとする危うさ。あるいはようやくアイデンティティの確立を目指し始めた青春期の危うさ。問い直され始めている家族の問題。いずれも古くて新しい人類に課せられた課題である。解答は、一人一人が見出していく以外にはない。突きつけられた刃から目を背けるのも善し。敢然と立ち向かい玉砕するも善し。慎重に慎重に歩みを止める事なく、それぞれの峠を乗り越えるも善し。時間の経過に任せて、成り行きに任せるも善し。他人に相談しようが、自力で解決を図ろうが、これは私たち自身が時折遭遇する人生の分水嶺において、選択を迫られそれなりに決断していかなければならない問題である。結果に対して、その責任を果たす事も然り。
◆厳格に生きるべく自分を律しようとする人は、自己に厳しくすればするほど、あるいは自分と同様に他人を枠の中に縛ろうとすればするほど、自分自身の本音から遠ざかり自己矛盾を起こす。これは、老若男女を問わない。ただ意識しているかしていないかの違いに過ぎない。たとえ家族であろうとも、個としての価値観はそれぞれ異なるのであり、自己の枠組みを押し付ける事はできない。単にその姿勢に共感を覚えてもらうことができるだけである。言葉ではなく、言動を含めた日常活動すべてが影響を与えるのである。強いて挙げるならば、家庭における子弟に対する教育は、まさにその一例であろう。親は子供の反面教師であり、心の鏡である。その点を忘れる事なく、自己の価値観を創造しつづけなければならないのではないだろうか。
◆この映画は、今まで述べてきたえてして日常生活に埋没してしまう個々人に対する問題提起と捉える事もできるし、他方成熟したアメリカ社会の裏面に巣食う病巣の指摘とも取れるが、そこに悲壮感は見られない。確かにレスタ−の死は、一つの暗示ではあろうが、将来の可能性を閉ざしたわけではない。これは、必見の映画である。

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★映画評論★「雨あがる」に感じたノスタルジア−

○「−−−−他人を押しのけず、他人の席を奪わず、機会さえあれば、貧しいけれど真実な方達に喜びや望みをお与えなさる、−−−このままの貴方もりっぱですもの」主人公三沢伊兵衛の妻おたよがひとり言のようにつぶやく言葉が印象的であった。
ともすれば、眼前の利益のみを追求しがちな私たちの現実の生活において、一服の清涼剤となりうる作品である。故黒沢明の脚本というだけで、見に行く機会をうかがっていたのだが、なかなか行く事ができず、ようやく時間がとれたのは一番館での上映が終わる寸前であったので、まだ観ていられない方は、上映されている映画館を探すのに苦労されるかも知れないが、ぜひご覧になられる事をお勧めします。監督は違うものの、そこには紛れもなく黒沢作品に共通して流れる日本の情緒を感じさせてくれるのである。派手さはないものの、伝えたいものを感じ取れる作品に仕上がっている。
●やや、難点をあげれば、時代劇ということもあって、スト−リ−展開が結構スロ−テンポであり、洋画に馴染んだ方には、退屈に感じてしまう人も出るだろうが、細部を見逃さず聞き逃さず鑑賞していただければ幸いです。

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☆4/12介護保険がはじまって

◎高齢化社会の到来で老人医療費の増大が問題になり、核家族化で家庭での介護負担が限界に達していることを受けて、この四月より介護保険法が施行されている。現行の健康保険法だけでは、今後ますます財政圧迫は避けられないならば、老齢人口の増加現象に適した新たな負担原理を導入することは検討されて良いし、老人が老人を介護する老老介護だけでなく核家族による介護の精神的身体的負担が非常に過大になっている事を勘案すれば、特別養護老人ホ−ムをはじめとする受け入れ施設の充実は急務である。また、介護に携わる人材確保は、産業構造の変化による余剰人員の受け皿としての役割も担える事が想定できるのも、メリットであろう。

◎介護保険の趣旨には賛同できるし、また何らかの対応があってしかるべきである。けれども、なぜ介護認定なのであろう。症状・介護必要度に応じて、個々の負担額を算定するというが、個々が求めている必要な介護・医療はそれぞれ違うのであり、それを一定の基準に輪切りにしてサ−ビスを提供する意味が理解できないのである。また、その認定に伴う過大な人員と経費はどう考えるべきなのだろうか。さらには、役所と施設・病院側の認定の相違はどのように調整されるのだろか。本人が望んだ介護費・あるいは必要とした医療費に対し、本人の負担額を一律に計算し、高額医療補助等で調整する手段は取れなかったのだろうか。

◎私自身の経験談で申し訳ないが、たまたま私の祖母が入居している特別養護老人ホ−ムの介護保険導入の説明を聞いたが、6日間以上病気とうで施設を離れると介護保険が大幅に減額されると言う。そこのように3ヶ月までは部屋を空けて待っていただくという施設もあるが、経費の割に大幅な収益減ではいつまでその処置を持続させられるであろう。介護のみならず、独居老人などは介護者とのささやかなる会話を楽しみにしていると聞く。TVや新聞などで報じられる介護業者の、分刻みの介護スケジュ−ルを迫られる訪問介護の現状は、介護される側の気持ちを考えない営利主義は入り込む余地がないのではないかとも思える。とすれば、国が考える、競争原理によるサ−ビス向上は絵に描いた餅に過ぎないのだろうか。介護保険制度はスタ−トしてしまったが、危惧した事態にいたらないよう願うばかりである。

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